
アジアの山地林にすむ小型のシカの仲間。家族的にはシカ科ではなくジャコウジカ科(Moschidae)に分類されます。
最大の特徴は角がないこと、そしてオスの長い上犬歯(キバ)です。
ジャコウジカの基本情報
分類:鯨偶蹄目ジャコウジカ科ジャコウジカ属
主な生息地:南アジア山岳の森林、潅木地帯(シベリア、中国、ネパール、朝鮮半島)
平均寿命:約10から15年
体長:0.8m~1.0m
英語表記:Musk deer
小さながっしりとした体格で、後肢は前肢よりも長く、険しい山岳地帯を軽やかに移動するジャコウジカ。
シカのような姿をしていますが角はありません。
角を持たない代わりに、雄にはサーベル状の上犬歯(牙)が発達しています。
実は、ジャコウジカのもっとも特徴的なところはキバでは無く匂い。
かつて世界中の香水業界を魅了したムスクの香りの源として知られるこの動物は深刻な絶滅の危機に瀕しているのです。
ジャコウジカからとれるムスクの香りのもと「麝香(じゃこう)」の商業目的の国際取引は、現在ワシントン条約によって原則禁止となっています。
ジャコウジカの外見と行動の特徴

ジャコウジカの最も特徴的な外見は、その独特な体型にあります。
全長80-100cm、肩高50-70cm、体重7-17kgという比較的小さな体格ながら、山岳地帯の岩場を移動するのに適した強靭な脚力を持っています。
名前に「シカ」とついているものの、一般的なシカとは大きく異なる特徴があります。
まず、角が全くないこと。その代わり雄では上の犬歯が大きく発達して、サーベル状の牙となるのです。
この牙は縄張り争いや繁殖期の闘争で重要な武器として機能します。
実は、ジャコウジカはシカよりも原始的と考えられていましたが、実際にはそのような系統位置にはないことが近年の研究で明らかになっています。
ジャコウジカ科はウシ科と単系統群を成しており、見た目以上に複雑な進化の歴史を持つ動物なのです。
ジャコウジカにキバがあるのはなぜ?角が無い理由

ジャコウジカは森林の茂みや山地に暮らしています。
大きく枝分かれした枝角は邪魔になりやすく、しかも毎年の生え替わりに大量のエネルギーを必要とするのでジャコウジカとって枝角はマイナスの方が大きいのです。
一方、細長いキバは軽量・低コストで密林でも取り回しが良いため、ジャコウジカの生活環境では有利になりやすいと考えられます。
キバは武器として使用すると同時に、オスのジャコウジカにとって強さの証明でもあるようです。
繁殖期にオスが縄張りやメスをめぐって争うとき、長いキバを見せつけたり、横からひっかけるようにして相手を威嚇・小競り合いします。
致命傷になる前に決着がつく、キバの見せ合いや軽い接触が多いようです。
ジャコウジカの生態

ジャコウジカの行動パターンは、その生息環境と密接に関係しています。
主に南アジア山岳の森または潅木地帯に生息し、岩場の多い険しい地形を好みます。
荒地を登るのに適した脚を有すため、天敵から逃げる際にも素早く高所に避難することができます。
基本的に夜行性で、昼間は岩陰や茂みに身を隠し、夜間に活動を開始します。 単独行動を好み、繁殖期以外はほとんど群れを作りません。
食性は植物食で、山地の草本類、樹皮、若芽などを食べます。
冬の切り札は地衣類(コケとカビの仲間)。特にシベリア周辺の個体群は、雪の季節に地衣類への依存度が高く、栄養の少ない冬をしのぎます。
天敵としては、オオカミ、ヒョウ、ユキヒョウなどの大型肉食動物が挙げられます。
しかし現在では、最大の脅威は人間による狩猟です。 ジャコウジカの雄の香嚢(コウノウ)の分泌物を原料とするムスクを目的とした狩猟により、個体数が激減しているのです。
繁殖と子育て

ジャコウジカの繁殖期は春から初夏にかけて訪れます。
この時期になると、通常は単独で行動する雄が活発に縄張りを主張し始めます。 雄同士の争いでは、発達した犬歯が重要な役割を果たします。
ムスクの香りは繁殖行動と深く関係しています。
ジャコウジカのムスクの香りは縄張りを示したり雌をひきつけるなど、フェロモンの役割を担うとされています。
つまり、人間が珍重する香りは、本来ジャコウジカの繁殖活動に欠かせないコミュニケーション手段だったのです。
妊娠期間は約5-6ヶ月で、通常1~2頭の子供を出産します。
母親は岩場の隙間や茂みの中に子供を隠し、危険が迫ると別の場所に移動させて保護します。子育ては主に母親が行い、生後数ヶ月で独立していきます。
ジャコウジカの進化の軌跡

ジャコウジカの進化史は、化石記録によって辿ることができます。
この科の化石記録は漸新世、2,800万年前まで遡ることが知られています。化石は中新世のユーラシアと北アメリカに多く産出することから、かつてはより広範囲に分布していたことがわかります。
しかし、時代とともにジャコウジカ科の多様性は減少していきました。
更新世初期には現生属であるジャコウジカ属(Moschus)のみとなったのです。
日本列島でも、中期更新世(チバニアン)にはジャコウジカやキバノロなどは日本列島にも分布していたという記録があります。
現在の分類学では、21世紀初めまで、ジャコウジカ科はシカ科と姉妹群だと考えられてきたものの、DNA解析により全く異なる系統位置にあることが判明しています。
この発見は、外見の類似が必ずしも進化的な近縁性を示すわけではないことを教えてくれます。
ムスクの香り、ジャコウジカの麝香(じゃこう)ってどこにあるの?
ムスクの香りのもと、麝香(じゃこう)はジャコウジカのオスだけが作る分泌物で、下腹部の中央(へそからお尻のあいだ)にある袋状の腺「麝香嚢(じゃこうのう)」の中にたまります。

麝香嚢から取り出した直後の麝香は茶~赤褐色のねっとりしたペースト状で、乾燥させると細かな顆粒になり、暗褐色~黒褐色に変わります。
においは動物的で強烈ですが、時間を置いて熟成・希釈すると甘く温かい香りに変化します。
そして、その麝香を採取するためにジャコウジカが乱獲されたため、絶滅の危機に瀕しているのです。
現在はワシントン条約によって規制され、天然ムスクの取引は厳しく制限。
その後、一般的に香水や柔軟剤などに使われている「ムスクの香り」は人工的に作られた合成香料が大半となり、ジャコウジカの密猟は減少しつつあります。
ジャコウジカの生息地と保護への道のり
現在、ジャコウジカはシベリア地域を中心に、中国、ネパール、朝鮮半島などに生息しているものの、その数は年々減少しています。
それでもなお、生息地の破壊や密猟といった問題は残されており、継続的な保護活動が必要とされています。
ジャコウジカという名前を聞いたとき、私たちは単なる香料の原料としてではなく、絶滅の危機に瀕したかけがえのない野生動物として、この美しい生き物を思い浮かべるべきなのでしょうね。